翌朝10時――ヘルメットを被った航は、50CCの中古の単車にまたがった。これは沖縄に来てから購入した単車だ。「よし、行くか」航はエンジンをかけてスーパーへと向かった。**** 「えっと……米が5Kgで野菜って言ってたよな……。どんな野菜か聞いとけばよかったな。よし、電話かけてみるか」スーパーでカートを押していた航は、ボディバックからスマホを取り出すと電話帳を開いた。「えっと……吉田のばあさん……と。よし、掛けてみるか」トゥルルルルル……トゥルルルルル……5回目のコールで電話が繋がった。「ああ。吉田のばあちゃん、俺だ、航だよ。今スーパーに来てるんだ。米は買うけど野菜はどうするんだ? 何を買ってくればいい? え? 何でもいい? 何でもいいが一番困るんだよ……。あ、そうだ。こういうのはどうだ? 例えば普段買えないような野菜ってのはどうだ? どんなのかって? う~ん……そうだな……。あ、重い野菜はどうだ? 例えばニンジン、ジャガイモ、玉ねぎ、かぼちゃ……あと何かあるか? キャベツ? ああ、そうだな。キャベツなら1玉で買えば重いもんな。よし、任せろ。多分1時間以内に行けると思うから……ああ、じゃあな」航はスマホをきり、ボディバックにしまうと呟いた。「急ぐか」**** 40分後―― 航は先ほど電話で話していた吉田と言いう女性の家に到着した。この女性は航と同じ名護市に住んでいる。何十年も昔に建てられた家は1階建てで、間口がとても広くて開放的な造りとなっている。台風が多い場所なので家の周囲はぐるりと石垣でおおわれていた。照り付ける太陽ですっかり日焼けした航は、荷物が入った大きな段ボール箱を足元に置くとインターホンを鳴らした。ピンポーン「……」もう一度試しに航はインターホンを鳴らしてみる。ピンポーン「……」それでも反応が無い。「何だよ……ひょっとしていないのか?」航は玄関のドアに手を掛けると……。ガラガラガラ……音を立てて引き戸が開いた。「何だ、開くじゃないか」航は段ボール箱を手に取った。「よっと」抱え上げると靴を脱ぎながら声を張り上げた。「ばあちゃーん。上がるぞー」しかし返事は無い。「本当にいないのかよ……戸締りもしないで……」航はぶつぶつ言いながら上がり込み、台所に頼まれていた買い物が入った段ボール箱を
「あの、貴方の名前と連絡先を教えて下さい」岩崎茜は航に頭を下げてくる。「別に連絡先位教えてもいいけど……何でだよ?」「それは勿論、後日何かお詫びを……」「あー、そんなものいらねぇから」航はフイと視線をそらせた。「そう……ですか……」俯く茜の姿が何となく朱莉の姿とかぶってしまった航は溜息をついた。「ハア……。でもまあ、そっちが名刺を渡してきたんだから俺も渡すべきかもな」航はシャツの胸ポケットから名刺入れを取り出した。職業柄、航はいつでも名刺を渡せるように持ち歩いているのだ。「ほらよ、これが俺の名刺だ」航が名刺を差し出すと茜は丁寧に両手で受け取り、じっと名刺を見つめた。「安西……航さん。興信所兼便利屋さんですか」「ああ、そうだ。もっとも本業の興信所の方は依頼がさっぱりだけどな。まあそれも仕方がないけどな。一か月前に沖縄に移り住んだばかりだから」そこまで言って、航は茜がじっと自分を見つめていることに気が付いた。(しまった! 俺としたことが初対面の女に余計なことをぺらぺらと……)「じゃあな、クリーニング代とかは気にするな。お互い様だから」そう言って航は背を向けるとコンビニを後にした。(どうせもう会うことも無いだろうしな……)航はそう思っていた。少なくともその時までは――**** 住居兼事務所に戻った航は電気をつけ、部屋の窓のブラインドをしめるとまずは自室へ向かった。タンスから新しいTシャツを取り出すと、コーヒーで汚れたシャツとTシャツを脱ぎ、先ほど出したTシャツに着替えた。汚れた衣類をバスルームへ持っていき、洗濯機に放り込むと次に航はキッチンへ向かった。ヤカンに水を入れてコンロに火をつけて湯を沸かす。その間に箸と皿を背後にある食器棚から取り出すと、カットサラダを皿に開け、小型冷蔵庫からドレッシングを取り出して事務所のテーブルへと運ぶ。ピーッ!ヤカンが鳴ってお湯が沸いたことを知らせる音が聞こえ、カップ麺にお湯を注いで事務所のデスクへと運んだ。出来上がりまでの5分間の間、航はスマホのメッセージのチェックをした。「え……と、明日は1人暮らしの爺さんの弁当配達と……ばあさんの買い物か……。全く雑用ばかりだな……。もうそろそろ興信所の依頼が入って来てもいい頃なのに……。おっと、もう時間かな?」航は壁にかけてある時計を見ると、手
航はコンビニへ来ていた。レジカゴに大盛りのカップ麺、袋売りのカットサラダ。そしてオリオンビールに手を伸ばし掛け……ため息をついて安い発泡酒を冷蔵庫から取り出すとカゴに入れて男性店員の待つレジへと持っていく。そしてアイスコーヒーを注文した。「657円になります」航はスマホ決済をすると、レジ横にあるコーヒーマシンにレジで受け取ったカップをセットしてボタンを押した。ウィ~ン……コーヒーが注がれる音がして、やがてマシンが止まったので航はカップを取り出すと出入り口へ向かい……。ドンッ!!出会い頭に店内へ入って来た女性とぶつかってしまった。「ウワッ!!」「キャアッ!!」航は手に持っていたコーヒーをぶちまけてしまい……航も女性も互いの服にコーヒーを被ってしまった。途端に航の来ていた黄色いTシャツがこげ茶色に染まる。「あ……」ポタポタとコーヒーが垂れるカップを手に持ったまま航は呆然としていると、突然女性が謝ってきた。「ご、ごめんなさい!!」見ると、その女性は白いTシャツにデニムのスカートを履いていて、コーヒーがすっかり染みて茶色くなっている。「い、いや……むしろ謝るのは俺の方……」航が言うと、女性は顔を上げた。「いいえ! 実は私ぼんやりしていて下を向いてコンビニへ入ってしまったんです。ちゃんと前を向いていれば貴方にぶつかることも、コーヒーをこぼさせて服を汚してしまうことも無かったんです! 本当にごめんなさい!」そして再び女性は頭を下げてきた。「い、いや。だけど、俺よりもむしろそっちの方が汚れているだろう?」相手の女性はどう見ても航より年下に見えたので、ついいつもの口調で航は話してしまった。「いいえ! だって折角買ったコーヒーを駄目にしてしまいましたから」その時、レジから店員がモップを持ってやって来た。「御客様方、大丈夫ですか?」すると女性が言った。「あ、す、すみません! 私が原因でこぼしてしまったのでお掃除します!」「「え?」」女性のあまりに突拍子もない台詞に航と男性店員が同時に声を上げてしまった。「い、いえ。お客様……掃除はこちらで行いますので、お気になさらないでください」「でも……」尚も女性が言うので航は口を挟んだ。「いいから店員の言う通りにした方がいい、ほら。困ってるじゃないか」航の言葉に女性は店員を見た。
11月初旬――「ったく……今日も興信所の依頼は無しか……」航は口を尖らせ、事務所の入り口にかけてある手作りの木の札をopenからclosed に変更すると事務所に戻り、うち鍵をかけた。「まぁいきなり沖縄にやってきて興信所を開くこと自体無謀だったか……」事務所に置かれた黒い合皮製のベンチ型ソファーにゴロリと横になると、航は窓の外を眺めた。窓にかけられたブラインドは開け放たれ、沖縄の美しい夜空に輝く星々が見える。今の時刻は19時。事務所は朝の9時から開けてあるが、その1日の大半は航はこの事務所にいることは無い。何故なら興信所以外に便利屋の仕事も併用しているからだ。メールや電話1本で、自分に出来る範囲の仕事ならどんなに遠くても、たとえどんなものでも引き受けて依頼を達成してきた。例えば害虫駆除であったり、網戸の張替え。時には代わりに海に行って魚を釣ってきたこともある。航はオールマイティーな人間だったのである。最近は航の仕事ぶりが話題になり、口コミで少しずつ便利屋の依頼が増えてきたが、肝心の本業である興信所の仕事はまだ1件も入ってきたことは無い。「いっそ本業を廃業して便利屋一本でやっていくか……」しかし、首を振ってすぐにその考えを否定した。「いや、駄目だ。父さんの反対を振り切って、沖縄までやってきたんだ。これで興信所の仕事を諦めて便利屋家業になったことを知られた日には、ほれ見たことかって馬鹿にされるに決まってる!」それに興信所をやめたくない理由はそれだけでは無かった。その理由は朱莉である。興信所の仕事をしていなければ航は沖縄に来ることも、朱莉に出会うことも無かった。朱莉に失恋した直後は絶望の日々で、一時は発作的に上野の興信所のビルのてっぺんから飛び降りてしまおうかと思ったこともあった。しかしその度に朱莉の悲しむ顔が脳裏に浮かび、衝動を抑え込めてきたのだ。あの当時の自分は随分やけになっていたが、同じ苦しみを分かちあう琢磨がいたお陰で、徐々に失恋の痛手から立ち直っていけたのである。あの当時の航は朱莉になんか出会わなければ良かったと自分の運命を呪った。初めから出会うことも無ければ、身を引きちぎられそうな悲しい目にあうことは無かったのだ。心の傷はなかなか癒えることは無い。けれど一月が過ぎ、二月が過ぎ……三月目が過ぎた頃から、航の時はようやく動き
「どうしてこんなに貧しい生活をしているの? 駆け落ちした男性は実業家だったって聞いてるわ。それに家を出る時に通帳を3冊も持って行ったって……。5千万以上は持ち去って行ったって聞いていたけど?」明日香はどこか非難めいた言葉で言う。「ああ……相手の彼がね、事業で失敗して失踪してしまったのよ。借金を作ってね。その連帯保証人が私だったってわけ。1億も借金していて……今もその返済でこんな暮らしをしているのよ」「……家には泣きつかなかったの?」「そんなこと出来るはずないでしょう? だって貴女を鳴海家に置いてきてしまったし、実家からは駆け落ちした段階で縁を切られてしまったから自業自得よ」「……どうして……私を捨てたの……?」明日香は震えながら尋ねた。「ごめんなさい……。私は貴女が……怖かったのよ…」「え……? こ、怖い……? 何故……?」すると麗子は溜息をついた。「あの頃の私はお嬢様育ちで世間知らずで……親に反発して夜遊びばかりして……それが間違いだったのよね。ある夜、見知らぬ男に……」そこで麗子は言葉を切った。その身体は小刻みに震えていた。それで明日香は悟った。(ああ……やっぱり私は望まれて生まれてきた子供では無かったのね……)「それで……私を捨てたの……?」「ごめんなさい……明日香……本当に……」目の前で肩を震わせて悲し気に俯く麗子を見て明日香は思った。(まだ母は私を見て怯えているのね……。少しでも私に会えて喜んでくれると思っていたのに……)溜息をついた時、明日香は壁の隅に置かれたガラスケースが目に止まった。そこには明日香が子供の頃に大切に持っていたウサギのぬいぐるみがあったのだ。「え……? あれは……?」すると麗子も気づいたのか、ぬいぐるみを見ると尋ねてきた。「あのぬいぐるみ……もしかして覚えているの?」明日香は黙って頷く。「そう……実はあのぬいぐるみ、2つ買っておいたのよ。明日香とお揃いで持っていたかったから」「お母さん……」(ひょっとするとお母さんは私のことを忘れないために……?)「お母さん、私今長野に住んでるのよ。もし気が向いたら……たまには電話して?」明日香は電話番号をすらすらとメモ紙に書くと卓袱台の上に置き、立ち上がって玄関へと向かった。その後ろを麗子がついて来る。「……帰るの?」「ええ。恋人が待ってるから
明日香の母――麗子が、恋人を作って突然家を出て行ってしまったのは明日香と翔が7歳の時だった。それは本当に突然の出来事だった。麗子はたった1枚のメモだけを残し、実の連れ子の明日香を鳴海家に置いて新しく恋人になった年下の若い恋人と逃げてしまったのだった。『ウワーン! お母さーん!』まだたった7歳の明日香は母に置いて行かれてしまったことが悲しくてたまらなかった。この鳴海家は冷たい家だった。父は海外赴任させられ、厳しい祖父は明日香を邪険に扱った。そして使用人たちからも明日香は軽蔑の眼差しで見られていた。その中で、たった1人明日香の味方だったのが……血の繋がらない兄の鳴海翔だった。『明日香、そんなに泣くなよ』翔が明日香の頭を撫でた。『うう……で、でもお母さんが……帰ってこないんだもの……』明日香は母が唯一買ってくれたウサギのぬいぐるみを抱きしめたまま泣き続ける。『う~ん。でも明日香のお母さんが何処に行ったのか僕たちは知らないからなあ。あ! そうだ、いい考えがある! 明日香!』『何? 良い考えって……?』泣きながら尋ねる明日香。『明日香がほんの少し、怪我をしてみるといいんだよ。そして御爺様に言うんだ。明日香が怪我をしてしまったから、お母さんを呼んで欲しいって。そしたらきっと来てくれるよ!』そこで考え付いたのが、家の階段から落ちて軽い怪我をすること。しかし、2人はまだ幼い子供だった。加減と言うものを知らなかった。翔の言うがままに、明日香は無茶な高さから階段を落ちて……大怪我を負って入院する羽目になってしまった。救急車で運ばれて行く明日香を翔は泣きながら見送り……それ以来翔は明日香を大切に扱うようになった。しかし……大怪我を負った明日香のもとに、母は決して戻ってくることは無かった――****「ごめんね……こんなものしか出せなくて」6畳間の古びた畳の部屋、小さな卓袱台の上にお茶を置くと麗子は明日香に謝った。「ありがとう……」明日香は湯呑を持ち、お茶を飲んだ。安い茶葉なのだろう。少しも美味しくは無かった。部屋の中は殺風景だった。卓袱台の下にはラグマットが敷かれてはあるものの座布団すらない。横置きにされたカラーボックスの上には恐らく一番小さなサイズの液晶テレビが置かれている。窓にかけてあるレースのカーテンは太陽の光で焼けたのか茶色く染ま